護國山 國分寺について

由緒

天平13年(741年)聖武天皇の詔により全国に国分寺と国分尼寺(正式名称は「金光明四天王護国之寺」と「法華滅罪寺」)が造営され、当山は、その一つ「甲斐国分寺」として創建された。
創建当初は金堂、講堂、七重の塔(五重の塔との説も)などの壮大な伽藍を誇る官寺として栄えたが、平安中期以降、律令国家の衰退と共に寺勢は著しく衰微した。鎌倉建長7年(1225年)には兵火によって堂宇悉く焼失し、その後再建はされたものの室町時代に入ると寺領を次第に失い、法灯は殆ど途絶えて廃寺同然の状態が続いた。
永禄年間(1558~1570年)これを惜しんだ武田信玄が寺領を寄進し小庵を建て、住持として快岳周悦和尚を入山せしめて寺を再興。勝頼も父信玄寄進の寺領を安堵して様々に保護したため、この時から寺運漸く興隆に向かうところとなった。
江戸中期から後期にかけては薬師堂・本堂など現在残る主な伽藍が順次建立され、臨済宗の寺院として今日に至るまで法灯を守り続けている。

概要

名称
護国山国分寺(甲斐国分寺)
宗派
臨済宗妙心寺派
本尊
薬師如来
開山
行基菩薩
開基
聖武天皇・光明皇后

仏像

仏像

薬師如来像、日光・月光菩薩像(薬師堂 秘仏)、十二神将像(薬師堂)、阿弥陀如来像、文殊菩薩像(本堂)、大日如来、大黒天ほか(境内 石仏)

仏像