新しい境内に完成した美しい庭園と、その木々に囲まれ見事に蘇った荘厳な伽藍を前にして、「感無量」という以外に今の気持ちを表現する言葉がありません。昭和57年に旧一宮町により史跡保存管理計画が策定され、当山の移転に向けて協議が始まって以来28年。具体的な工事が始まった時から数えても10年以上にわたる大事業が遂に完了しました。
天平創建以来1250年以上もの間、法灯を守り続けてきた歴史ある境内を他に移すということは、まさに苦渋の決断でした。平成10年に新住職として先代から事業を引き継いだ当初は、責任の重さと自らの非力に途方に暮れて立ちつくすことも度々ありました。しかし、その都度素晴らしいご縁に恵まれ道が開かれました。臨済宗各派の寺院方はもちろん、東大寺及び全国の国分寺関係者からも貴重な助言を賜り、古建築・考古学など各分野における第一人者の先生方に直接ご指導いただく中で、結果的には最善のかたちで事業を進め無事完遂することができました。すべては、仏天のご加護はもとより檀信徒の皆さまの篤い信心と深いご理解、長年にわたる物心両面でのご協力のたまものと、幾重にも感謝申し上げて止みません。さらに、長年ご指導ご協力をいただいた笛吹市(旧一宮町)はじめ行政・地域関係者各位、文化財関係者各位、本山妙心寺はじめ宗門関係者各位、また技術を尽くして直接工事にあたられた設計の(公財)文化財建造物保存技術協会、施工の(株)石川工務所、作庭の田中造園ほか全ての工事関係者各位に心より感謝を申し上げます。
これからは、ますます寺檀一つとなり甲斐国分寺の新たな歴史を刻んでまいる所存です。今後ともご支援のほど何卒よろしくお願い申しあげます。
旧境内とその周辺には金堂跡、講堂跡、塔跡をはじめ、古代国分寺の遺構や礎石が多数現存、大正11年には「甲斐国分寺跡」として国の史跡に指定された。隣接する「甲斐国分尼寺跡」も昭和24年に国の指定を受けている。 昭和57年「甲斐国分寺跡」「甲斐国分尼寺跡」ともに旧一宮町による史跡保存整備事業が本格化し、史跡範囲の公有地化が始まった。史跡の中心に位置する当山境内については、すでに老朽化し修理時期に達していた建物の問題も含め、行政を含めた関係者が長年にわたり協議を重ねた。その結果、平成5年、史跡指定範囲外(南西約300m)に新たに境内を造成し、建物・墓地などは移転補償を受けて全て撤去・移設、寺院全体を移転することとなった。 建物の取扱については、どの建物も老朽化が著しく進んでいたため、当初は鐘楼門のみを移築その他は規模を縮小して新築を、という案も検討された。しかし、古建築の専門家、文化財関係者、寺院関係者から助言をいただき、最終的には現存する価値を評価し、寺の歴史を後世に引き継ぐため、本堂、薬師堂、庫裏、鐘楼門の4棟を移築、他は新たに整備することが決まった。
年 | 月 | |
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昭和57年 | 史跡保存管理計画策定(旧一宮町) | |
平成11年 | 移転先土地購入・建物基礎調査 | |
平成12年 | 建物基本計画書作成 | |
平成13年 | 10月 | 本堂解体工事着工 |
12月 | 移転先土地造成工事着工 | |
平成14年 | 3月 | 移転先土地造成完了 |
8月 | 本堂組立工事着工 | |
11月 | 鐘楼門解体工事、住宅工事着工 | |
平成15年 | 4月 | 住宅完成 |
11月 | 本堂上棟式 | |
平成16年 | 1月 | 薬師堂解体工事着工 |
11月 | 本堂完成 | |
平成17年 | 1月 | 庫裏解体工事着工 |
7月 | 薬師堂組立工事着工 | |
10月 | 旧墓地移設(撤去)開始 | |
平成18年 | 6月 | 庫裏組立工事着工 |
9月 | 薬師堂完成 | |
平成19年 | 3月 | 旧墓地移設(撤去)終了 |
7月 | 鐘楼門組立工事着工 | |
平成20年 | 1月 | 庫裏完成 |
2月 | 作庭・造園工事着工 | |
8月 | 鐘楼門完成 | |
平成21年 | 12月 | 作庭・造園工事完了 |
平成22年 | 11月 | 落慶法要 |
桁行18.4m、梁間11.4m、一重、寄棟造。旧来本堂の屋根は茅葺であったが、今回の工事ではこれら茅葺を模した銅板葺として整備された。梵鐘の銘文記録から元禄年間(1688~1703)の建立と考えられる。
建物には一般的な方丈型本堂で、内部を前後各列3室の6室に区切り、中央奥は間口3間、14畳大の板敷の仏間とする。正面と両側面の3方に1間幅の拾えんを廻し、外周4面には縁がつく。
桁行三間、梁間三間、一重、寄棟造。本堂と同様、旧来薬師堂の屋根は藁葺であったが、今回の工事ではこれら茅葺を模した銅板葺として整備された。背面には銅板葺の仏壇を張り出す。
今回の工事の際に建物の建築部材に書かれた墨書きが発見され、明暦2年(1656)の建立と判明した。内部は内外陣境に柱が建つものの間仕切のない1室とし、背後に仏壇を張り出す。外は正面と側面の3方に縁がつく。
移築前の薬師堂は、柱の位置を移し替えるなどの大規模な改造により建物の規模が拡張されていたが、今回の修理により薬師堂建築当時の平面規模に復原された。
一間、一戸楼門、入母屋造。他と同様、旧来鐘楼門の屋根は茅葺であったが、今回の工事ではこれら茅葺を模した銅板葺として整備された。
梵鐘の銘文記録から寛延3年頃の建立と考えられる。
一階に門を開き二階に梵鐘を吊る、当地方に多くみられる建物の形式である。
柱はすべて丸柱で礎盤上に建ち、隅柱4本は二階までの通し柱とする。組物は出三斗組(二階柱間は平三斗組)とし、一階扉上には墓股がつく。柱や貫などの主要構造部はケヤキ造りである。
桁行20.9m、梁間9.4m、入母屋造、妻入、東面下屋葺おろし。他と同様、旧来庫裏の屋根は茅葺であったが、今回の工事ではこれらを茅葺を模した銅板葺として整備された。西面及び北面には廊下、背面には便所が付属する。
大黒柱に取り付けられている棟札により嘉永5年(1852)の建立と判明した。
前側3間を土間、土間を上がった2間半部分を板敷きの広間、さらにその奥を上段として畳敷きの部屋を配置する。正面には本堂や鐘楼門とは対照的に、組物上に虹梁・大瓶束を組んだ妻飾りがつけられている。